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                       憧憬と郷愁(東山魁夷 記「オーストリアの旅から」)

   憧憬と郷愁、別離と帰郷−−其れが旅の姿である。しかし、もしこの二つの異なった方向が一つの輪に結ばれていたら、そのような宿命を持つ旅人は、いつまでも輪を描いて歩き続けることになる。

  初めてヨーロッパへ旅立ったのは、東京美術学校を卒業して間もなくの1933年昭和8年であった。ドイツを主な滞在地として、2年間、ヨーロッパの美術の研究と、生活を体験した。既に遠い昔である。

 ヨーロッパと日本は、それ以来、私の心の中に憧憬と郷愁の輪になって結ばれた。戦後、私が度々、両者の間を往き来することになったのも、その根は深いところに在る。

 今は、誰の記憶にも無い作品だが、戦前私は「古き町にて」と題して日本とドイツの古都を、それぞれ3点ずつ連作として描いた。戦争を経て長い歳月が過ぎても、私には折りに触れて、ドイツの古都の情景が浮かび上がってくることがあった。

  古びた門を潜り、石畳の道を私は歩いていく。両側には傾斜の急な破風の家々が、どの窓にも溢れるように花を飾って立ち並んでいる。その窓辺の花は、私に、Willkomenn!(いらっしゃい)と囁きかける。ところどころに、ガス燈の形をそのままに残した街灯、鉄細工の唐草模様をつけた趣のある看板。道は私を町の真ん中の広場へと導いていく。
 広場のまわりには、古風な市庁舎、ホテル、教会の高い塔、中央には石の彫刻のついた泉、酒場の庭の菩提樹の木蔭に並べられたテーブル・・・。

 先年、京都を主題にした連作と、新宮殿の壁画「朝明けの潮」を、殆ど同時期に描き終えたとき、こんどは遠くの方からドイツの古都が私を呼んでいるのを感じた。老い疲れようとする身心に、少しでも若い日の鼓動を甦らせたい願いもあって、私は36年ぶりに再遊の旅に出た。私には懐かしい期待と、同時に不安もあった。戦争を経て、古い町々の面影が今も残っているのだろうか。もし、失われていたならば、私の心の青春の残映も消え去ってしまうことになるだろう。幸いなことにドイツの北から南へ、オーストリアへの旅を通じて、中にはベルリンのように大きく変わった都市もあったが、小さな町は昔日の姿を良く残していた。私の夢の憧憬そのままでさえあったと言える。私の胸はそんな町に巡り合うたびに若々しく高鳴った。

 また、至るところで清澄な自然にも心を慰められることが多かった。自然と古都、そのどちらをも、美しく保とうとする「人間」の心が籠もっていた。

 バイエルンのドイツ第一級の観光地であるケーニヒ湖の湖岸には、昔あった2軒の木造ホテルがあるだけで、湖を巡る歩道さえつけられていない。遊覧船も電動船で、波を立てずに、ゆっくりと滑るように航行する。両岸は針葉樹の繁る切り立った断崖である。湖のなかばで船のエンジンを止め、船員がトランペットを、1節ずつ区切って吹く。すると四方の岩壁から、木霊がいくつも返ってくる。湖の静寂は、この時いっそう深まり、山湖の霊に触れる思いがする。

 この湖の奥に、さらに1つの湖があって、やはり雄大な景観であるが、ここにはボートも浮かんでいない。湖畔のごく狭い草地に、ただ1軒の丸太造りの牛小屋があって、中を覗くと炉にはチーズを造るための大きな鍋がかかっている。壁に掛けた飾り皿に、

「安息は人間にとって神聖なもの ただ狂人だけが急ぐ」

 と書かれていた。

 次の部屋の戸口からは、柔和な牛の瞳が私を見つめていた。

 いわゆる、ロマンティッシェ街道の古都ローテンブルクを訪れた私は、若いときにスケッチした広場の泉を、以前と同じ構図で描いた。背後にある古い市庁舎は爆撃で破壊されたのを、以前の通りに再建して壁の古色までつけられている。私は過ぎ去った長い年月を忘れる想いであった。そのローテンブルクの都門の1つには、

 「歩み入る者に やすらぎを 去りゆく人に しあわせを」

とラテン語で刻まれている。

 私はこの旅で現在の私たちの文明の方向と、その激しい速度について、また、私自身の日々の生活と心の在り方について、反省しないではいられない多くのものを感じた。

 若い時の私は、感覚的な要素の多い青年であった。ドイツに留学したのは、1つには知性による支えが欲しかったからである。36年を経て再び訪れた時は、この厳しい精神風土の国を旅しながら、私が感じたのは、むしろ、心のやすらいであった。